御年85歳の宮坂さんですが、お仕事もほとんど毎日でられてお元気ですね~!ずっと生糸のお仕事をされてきた訳ですが、戦前から戦後の岡谷の町の印象について教えてください。
―戦前についてはまだ小さかったから、あまり覚えてないよ(笑)。戦後のシルク産業の復興期は、国内需要があって製糸業も勢いがあったから、
岡谷の中央通りも賑やかで活気のある町だったよ。町の皆は元気だったな。
大学は信州大学へ行かれ、家業を継がれましたが、家業を継ぐことにあたり、その当時、葛藤はありましたか?
―兄弟は妹がいて、長男として親の期待もあったから、腹をくくって地元に戻ってきた訳だけど、製糸業を継ぐのはいやだったな~(笑)。
当時の諏訪地域は、精密業が盛んになってきた頃でもあって、製糸業の魅力は少なくて。私も生糸より時計や機械の方がよかった。本当にいやいや継いでしまった感じだよ。
いやいや継いでしまった訳ですが、これまでお仕事を続けてこられた秘訣は、何だったのでしょうか?大変なことはたくさんあったでしょう。。
―25歳で実家に戻って仕事を始めて、1975年前後では従業員も70人程度が働いてくれていた。会社の利益を出しながら皆の雇用を守っていくのは大変だったよ。
もともと宮坂製糸所は、大きな製糸会社では繰糸できない格落ちの繭を取扱う製糸所だった。
ちゃんと繭の品質を自分の目で見分けられるようでないと、仲介業者から三流、四流の繭を買わされるようなこともあるからね。
大変だったことはまだ色々あるよ。どこの製糸所も女性が多い職場だけど、ウマが合わない人たちがいると大変で。
ケンカをしたら、仲直りの仲裁に入るのも自分の仕事だった(笑)。
いやいや継いだ家業だけど、自分の腕が上がった時や、自分で工夫したことが上手くいった時は嬉しくて。生糸やその歴史に愛着が湧いてきたんだろうな~。
そうしている間に、こんなに時間が経ってしまった。
仕事では、多くの従業員の皆さんに毎日助けられて仕事をやってきた訳だから、一緒に働いてくれた皆さんには本当に感謝しているよ。
地域ブランドとして「岡谷シルク」が立ち上がったばかりですが、いかがですか?何か今後の展望はありますか?
― シルクが好きで始めた仕事ではないけど、岡谷でシルク文化が盛り上がってきて嬉しいね。昔は、シルクを観光資源にするという考えはなかったから隔世の感だね。
今では製糸工場は、すっかり珍しいものになってしまったけど、シルクがどうやって生まれて、着物みたいな製品になるにはどんな工程があるのか、沢山の人に岡谷に来てもらって、知ってもらえたら嬉しいな。
私も、岡谷にきて初めてカイコを飼育して、糸や製品になるまでの工程を体感しましたが、モノづくりの過程や現場は面白いですね!
まずは皆さんに岡谷にきていただき、この現場を見てもらえたら嬉しいですね!
聞き手:渡邉 陽子/第二期地域おこし協力隊