シルクで頑張る人

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Vol.1
髙林千幸 Chiyuki Takabayashi 
髙林千幸 Chiyuki Takabayashi 
岡谷蚕糸博物館 -シルクファクトおかや-館長
1951年岡谷市生まれ。東京農工大学工学部卒。1973年より農林省蚕糸試験場をはじめ、同岡谷製糸試験場等を経て、(独)農業生物資源研究所を最後に、長年シルクに関する研究開発に従事。2011年より岡谷蚕糸博物館館長。博物館活動全般の管理運営を担当している。また、岡谷市シルクアドバイザーを務め、2021年に創設した「岡谷シルク」ブランド協議会会長に就任した。前日本シルク学会会長。農学博士。

研究者として「未来」をみつめる仕事をしてきた人が、

博物館館長として「過去」に向き合った時に気が付いたこと。

それは、「歴史が未来を創造する」ということでした。

これからの社会をどうするか、そのアイディアや考え方を表現する博物館として

いちばん大切にしている「カイコ学習」のこと、

「岡谷シルク」ブランド化のことなどを深く語っていただきました。

 

「蚕糸」という言葉がついた日本で唯一の博物館

2014年にリニューアルオープンした岡谷蚕糸博物館-シルクファクトおかや-

 

― 岡谷蚕糸博物館の館長に就任されて今年で何年目になりますか?

 

髙林館長

ちょうど10年目になります。

 

― という事は2014年にリニューアルオープンするよりも前から…?

 

髙林館長

そうなりますね

 

― 岡谷蚕糸博物館の歴史について教えてください。

 

髙林館長

諏訪市の片倉館の敷地に諏訪市美術館がありますが、元は懐古館(かいこかん)という名前で蚕糸業の歴史に関わる道具類、機械類、資料を保存・展示していました。昭和18年に三代目片倉兼太郎が創設したのですが、片倉は財閥を形成し全国に展開していたので、そういった貴重なものを散逸させずに後世に残していこうとしたようです。

 

散逸を免れた懐古館の貴重な蚕糸関連の収蔵品が、昭和33年に全て岡谷に寄贈されることになったんです。片倉は岡谷の川岸出身で、生まれ故郷に寄贈して残してもらいたいという気持ちがあったんだと思います。ところが、当時の岡谷には博物館というものがなかったので、地元の製糸家の方々がこの大事なものを資料として展示していきたいということになりました。そこで、全国から寄付金を頂いて、現在の岡谷市民病院の場所に博物館が竣工しました。

 

片倉から寄贈していただいたものは959点に及びました。その中に、明治時代に富岡製糸場で使われていたフランス式繰糸機がありました。いま世界に現存するのはこの岡谷蚕糸博物館にある1台だけです。そういった貴重な繰糸機や機械類、繭を煮たりする道具などを並べて皆さんに見ていただこうと博物館が開館したのが昭和39年です。ちょうど東京オリンピックが行われた年でした。

 

― オリンピック・イヤーですか、記憶に残りますね。当時のことを覚えていますか?

 

髙林館長

私は当時14歳で、岡谷に住んでいました。博物館の事ももちろん覚えています。岡谷の図書館に蚕糸記念館というものがあり、最初はそこに片倉からいただいたものを保存していたんですよ。名前は蚕糸記念館ですが、当時の私から見れば倉庫のような感じでした。色々なものを山積みにして置いてあったんですね。それが「これではいかん!」という先人の思いで岡谷蚕糸博物館ができた。先人が残してくれたものをきちんと継承しながら、残していく場所として、岡谷にとって、私にとって、非常に貴重です。

実は「蚕糸」という言葉がついている博物館は全国でここだけです。私自身、この博物館に対して深い想いと愛着を感じています。

 

岡谷で生まれ、繊維の道を歩む決意。

迷った時に背中を押してくれた父の言葉。

 

― 館長は岡谷で生まれ育ったそうですね。子どもの頃、岡谷の製糸業はどんな様子でしたか?

 

髙林館長

小学校、中学校の頃は、まだまだ大手の製糸工場や町工場、家庭内企業のようなものがたくさんありましたね。

 

糸を巻き取る時の枠を回すカラカラという音。

さなぎを天日干ししている独特な匂い。

そういった音と匂いが街の中にあふれていました。

当時の工場は今の宮坂製糸場のような優しい匂いじゃないですよ!もうほんとにキツイ匂いと音がありましたね。

 

― その後、東京農工大工学部製糸学科で繊維を学ぶ道を選んだのはなぜですか?

 

髙林館長

 

私の親父は次男でして、本家の隣に蚕室を改造した家を建ててサラリーマン(技能者)として暮らしていたんですが、本家は養蚕と稲作で生計を立てていました。この辺の昔の家はほとんどそうでした。カイコも年に5、6回飼っていました。収繭したときに繭が山になるんですけど、小学校の時はその山の中へ入り遊んだりしました。そうすると怒られましてね。繭が潰れたりしますから。お蚕さまがつくる繭が貴重なものだと分かっていましたが、小学校の時は繭が何になるのか分かりませんでした。それが繭から糸を取る現場を工場で見た時に、繭はここで使われているんだ!と思ったんですよ!

そしたら次はその糸が何になるのか知りたくなった。

 

― 遊んでいた白い繭が糸になるのを見た時はどんな気持ちでしたか?

 

髙林館長

まぁるい繭がほぐれていって、糸が出てきて形が変わっていくのが面白くて。それから、作業をしているおばちゃんの手さばきを見て驚きましたね。ずーっと見てしまう。

 

― そういう経験から繊維に関わる道を歩もうと思われたんですね。

 

髙林館長

いいえ。私はコンピューターとか電子とか、これからの産業の方に行きたかったんですよ。岡谷も製糸業に代わって精密業の流れになっていましたし、夢のある産業だなと思っていました。

いわゆる理系に行って、技術者になろうと思い、繊維分野を選択しました。その頃はテイジン、東レ、カネボウなど糸編企業はまだまだ頑張っており、私はこの分野でいっぱしの技術者になろうと思いました。

 

大学時代、夏休みに岡谷に帰ってきた時に、親父にいろいろ相談したことがあるんですよ。自分の将来のことについて。岡谷に帰ってくれば精密業が華やかで、製糸業は下降気味。実は自分が望んだ道、繊維は下降の方向だったんですね。それで親父に相談したんですよ。そしたら、自分が選んだ方(繊維)へ行けっていったんですよ。「繊維全体が下火になれば、技術者もどんどん減って産業も小さくなっていく。でも逆に言えばその業界のプロになれる。だからお前はそちらの方へ行ったほうがいいぞ。そしたら、その世界で希少価値的な存在になる。」と親父は言ってくれたんですよ。

 

唯一無二の博物館づくり~博物館に製糸工場を併設する

日本に4軒しか残っていない製糸工場のひとつ「宮坂製糸所」

 

― お父様の言葉が今につながっているんですね。ところで「蚕糸」という言葉がついている博物館は全国でここだけと教えていただきましたが、他に類のない博物館作りを目指している気がします。2014年にリニューアルオープンするにあたって、館長がこだわったことはなんですか?

 

髙林館長

そうですね、蚕糸資料館はありますが、蚕糸博物館はここだけですね。私のこだわり、それは、この地域の子どもたちへのカイコ学習・シルクに関する学習です。この地域の子どもたちに世界一の生糸の生産地であり、日本の近代化を先導した岡谷の真の姿を知っていただきたい、先人の英知と努力を肌で感じていただきたい、それが郷土への愛着と誇りにつながっていくと思いました。これからを生きる子どもたちとって、自分にはすばらしい故郷があるということは一番大切なことだと思っています。

 

そして、製糸工場の併設ですね。博物館に民営の製糸工場を併設し、仕事として糸取りをしている様子を動態展示として見せたいなと。市の方と宮坂製糸所にお願いをしました。今の宮坂照彦会長は、「ついに俺んとこも博物館になっちゃうのか」なんて言っていましたけど(笑)。博物館に製糸工場を併設すると、見学者が博物館と同時に工場見学もでき、製糸業をよりよく分かっていただけると思っています。私はこのやり方で良かったなと思っています。

 

― 世界でも類をみない場所になりましたね。

 

髙林館長

博物館がある場所は、元々、農業生物資源研究所でした。今の常設展示の部分、あそこはかつて実験棟で毎日機械を動かしてデータを取って、新しい機械を作ったりする場所だったんです。体育館くらいの大きな場所があったんですね。私の役目はその中にあった製糸機械類を活かして、新しい博物館をつくること。展示するものや解説は博物館の学芸員たちとストーリーを一年くらいかけて作って決めていきました。

 

唯一無二の博物館づくり~貴重な繰糸機が技術の変遷と時代の流れを語る

手前が世界で唯一現存するフランス式繰糸機。そのレプリカ版はNHK大河ドラマ『青天を衝け』(2021.10.27放送)でも使用され、博物館が技術指導も行った。

 

 

― 片倉から寄贈されたものだけでも959点ありますよね。その中で諏訪式繰糸機やフランス式繰糸機といった繰糸機にフィーチャーして展示しているのはなぜですか?

 

 

髙林館長

ここ岡谷はご存じのとおり製糸のまちです。養蚕の道具とかは、他の民族資料館などにもありますし、見ることもできます。それはそちらの方にお任せして、私たちは製糸を中心に展示をしようという事になりました。製糸でも牛首や上州座繰り器は他の地域でも見ることができますが、工場規模でやった繰糸機があるのはどこを探してもここだけなんです。フランス式繰糸機、2条繰り、4条繰りとか。それらはこの博物館の宝です。

実は私、50年ほどの前の学生時代に初めて岡谷蚕糸博物館に訪れた時に不思議に思ったんですね。どーんと良い機械が展示してあるけれど、歴史的な流れが分からなかった。なので、博物館のリニューアル構想の時はそれを反映させたんです。繰糸機を一台置いているようなところはありますが、ここの場合は繰糸機がずらっと並んでいるでしょ!技術の変遷を知るとともに時代の流れも見られる。このような博物館は他にないです。

― この空間で時代の流れを感じられますよね。

 

髙林館長

機械を見るということは、そこに至るまでの過程や技術の集積を見るということ。技術の変遷を知れば、先人の苦労もわかります。上州座繰りから始まって150年以上になりますけれど、それを10分で体感できるよう案内しています。

 

 

史実に基づく「真実」を伝える

製糸工場の前に集まる工女さん。二百三高地髷(にひゃくさんこうちまげ)という当時流行した髪型が多くみられる。

 

― 工女さんの展示コーナーでは工女さんへの感謝の気持ちや真実を伝えたいという思いが伝わってきます。なにか使命のようなものを感じていらっしゃるんでしょうか?

 

 

髙林館長

博物館が移転するときに一枚の写真が出てきまして、私はそれを見た時に「ワォー!」と声を発してしましました。1工場に500人とか800人とかそういう話は聞いていましたけど、イメージが湧いてこないじゃないですか。工女さんが一堂に会した時の写真を見た時にこれほどの若い女性が!工女さんが一番多かったのは昭和5年頃で岡谷の人口76,500人の約半数36,500人が工女さんだったんです。

私はこれが岡谷にとって一番インパクトのある写真だと思います。工女さんが糸を作ってくれなければ、糸を海外に売ることはできなかった。当時の経営者もすごいですが、一番の功労者は工女さんだと思います。工女さんも働いているときは、自分が日本の経済を支えているなんてことは思っていなかったと思いますけれど。田舎のお父さんお母さんに楽させてやりたい、そういう一心だったと思います。

歴史を振り返ってみると、工女さんが膨大な量の糸を朝から晩まで取ってくれたおかげで、日本の礎が築かれたんだと思います。

 

― 大切な家族を喜ばせたいという工女さん一人一人の思いが、世界一にしたんでしょうね。そういう意味で工女さんの仕事をしっかりと紹介したいという思いがあるんですね。

 

髙林館長

そうです。だから「あゝ野麦峠」(山本茂実著)の本を何回も読みなおしましたけれども、確かに色々キツイ部分も出てきているのも事実です。それだけではなく、岡谷へ行って良かったという面も多く書かれています。博物館ではこれまで発刊した紀要で、以前岡谷の製糸工場で働いていた工女さんの聞き取り調査をしてきましたが、岡谷で過ごした青春時代の楽しさを多く語っていただいています。

 

― 当時の写真を見るとみんな楽しそうですよね。

 

髙林館長

そうですね。私は親の視線で考えると、自分の娘が毎日検番さんに叩かれたりしたら親は心配しますよ。いくらお金が稼げたとしても、私が親だったらそんなところに娘は行かせない。それが普通の親だと思います。岐阜県高山市や古川市に行って工女さんの聞き取り調査をした時に、まちの人から受けたのは岡谷への感謝の言葉ばかりでした。びっくりしましたね。

 

― リニューアルの時に博物館に「シルクファクトおかや」という愛称をつけられました。製糸業の真実事実を伝える、というのは工女さんの事もあるのでしょうか?

 

 

髙林館長

そうです。ご存じのとおりファクトというのは「真実」という意味ですが、工場の意味の「ファクトリー」にもかかっています。工場で真実を知ってもらう、史実に基づくものをそのまま伝えて行こうと。博物館のスタッフと話していますが、「あゝ野麦峠」に書かれているような事実は岡谷にありませんでした、と言うことはできません。そういう事もあったかもしれない。しかし、岡谷の工女さんにはこういう生活もありましたという事実の部分を伝える。そしてその話をどう解釈をするか、その判断はお客様に委ねる。岡谷にそんなことはありませんでした、といった説明をしてしまうとファクトではなくなってしまいます。

 

 

未来のものづくりを考えるなら「歴史に学び、未来を思考・創造する」

地元企業の新人研修で未来を担う若者たちに熱く語る!

 

― 良い所も悪い所も、事実をそのまま伝える姿勢は館長が研究者である事も関係あるのでしょうか?研究をする時は実証に実証を重ねると思いますし、一方向からだけでなく様々な方向から事実を集めていきますよね?

 

 

髙林館長

まさにその通りですね。

実は博物館の仕事を受ける時に悩んだことがあります。研究というのは新しいもの、新しい発見を目指す、今をベースにした「未来」への活動じゃないですか。それに対して、博物館は「過去」に視点を向けて研究することが仕事だと思ったんです。しかし、実際に働いてみると、博物館活動も私が今までやってきた研究活動と一緒だと思ったんですよ。

これからの社会をどうするか、そのアイディアや考え方をみなさまに与えるのが博物館活動だなと。研究活動もそうですよ。

 

― それが「歴史に学び、未来を思考・創造する」という博物館のキャッチコピーにつながる訳ですね。

 

髙林館長

博物館というのは過去を訪ねるという方がキャッチコピーとしては合っているのかもしれませんが、私は先人がどのような機械を作ってきたかという事を、これからの技術(機械)に繋げていければと。「未来に向けて!」ですね!

 

カイコ学習は生きた学習

 

桑の葉はカイコの大切な食事。博物館のしだれ桑で子どもたちに桑の葉の説明。

 

― カイコ学習もそのような思いがあって力を入れられているんでしょうか?

 

髙林館長

そうですね。私も職員の皆さんも思っていますが、この博物館の活動で一番大事なのはカイコ学習だということです。資料の収集や保存・研究、情報発信は博物館の基本だけれど、岡谷でやらなくてはいけないことはカイコ学習だと思っています。

なぜかというと、かつては暮らしの中でお蚕さまに触れることができましたが、今はそうじゃないですね。それを岡谷の子供たちに説明しても分かってもらえない。でも、実際にお蚕さまを飼ってもらうと「可愛い」とか、「脱皮したら大きくなった」とか、色々なことを学ぶんです。

カイコ学習は生きた学習です。カイコの生態を学び、岡谷市の歴史を学び、学んだ事をまとめる力や発表する力もつきますね。その中には、高校・大学を出て岡谷に戻ってきたり、世界に羽ばたく子もいると思います。そういう子どもたちがふるさと岡谷を振り返った時、岡谷に生まれて良かったと思ってくれると嬉しいですね。

 

 

地道にじっくり育てる覚悟。地域の誇りを第三者に評価されるブランドへ。

 

― 館長は、今年、「岡谷シルク」ブランド協議会の初代会長に就任されました。そもそも「岡谷シルク」のブランド化構想は10年位前から始まったと聞いています。どういう思いでブランド化をしようと思ったのでしょうか。

 

髙林館長

きっかけは養蚕です。15年くらい前、研究所にいた当時の私に三沢区民農園の方が養蚕を復活させたいと相談に来たんです。養蚕、製糸、製品開発は岡谷の力になる。そのためには、まずは岡谷産の繭を作るところから始めようと準備してきました。

岡谷でしか提供できない。岡谷だからこそできる。それがまさにブランドだと思うんです。

 

― 「岡谷シルク」をどんなブランドに育てていきたいですか?

 

髙林館長

やはり誇れるものですよね。何より使う人が誇りを持てて、何度でも自信を持って使いたいと思えるもの。そういう物がブランドだと思うんですよ。

 

― 自分たちにとって誇りあるものを磨いて育てていく事が大切ですよね。長期戦です。

 

 

髙林館長

ブランドとはユーザー、つまり第三者がそのものの価値を評価してくれないと。

自分たちでブランドだと言っているだけではまだブランドではない。ブランド化は非常に地道な作業なんですよ。初めは岡谷のシルクは量も少ないかもしれませんが地道に育てていかないとダメですね。じっくりじっくり。評価される形にしていかないと。

 

― そうですね、私は地域おこし協力隊の任期中に、皆さんが今後ブランド化を進めやすいような土台作りをがんばろうと思ってやってきましたが、館長のお話を聞いてとても安心しました。長い旅になりますが、館長、宜しくお願いします。

 

髙林館長

最近は体や頭が、古希古希(コキコキ)いってますけどね。(笑)

 

― 今日、お話を伺って、館長は時を超越した視点を持っていらっしゃるなと感じました。博物館の活動もブランド化のことも、ずっと前から始まっていることが未来につながっていく流れが見えている。鳥のように俯瞰して過去と未来を見渡し、つないでくださる人。見えている景色が壮大ですね。

 

館長

岡谷蚕糸博物館は、「岡谷の歴史そのものを表現する場所」だと思います。そして、私が心の中でいつも想っているのは、「未来のものづくりを考えるならば、先人の英知と涙ぐましい努力をこの博物館で肌で感じていただきたい。」ということです。

(10/12/2021)

インタビュアー

佐々木千玲/第1期岡谷市地域おこし協力隊