国内にわずかに残る製糸工場。
宮坂製糸所は伝統的な手作業で生糸作りをしている
最後の工場です。
風前の灯火と言われる産業を守り、
岡谷シルクの要となる生糸作りを担う
髙橋耕一さんにお話を伺いました。
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40歳目前で未経験の製糸工場に飛び込み、糸取りからスタート
― 宮坂製糸所が創業されたのはいつですか?
髙橋社長
昭和3年(1928年)12月です。
― 昭和3年というと、岡谷の製糸業の最盛期ですよね?昭和5年、岡谷の製糸工場で働く工女さんの数が34,500人。人口のほぼ半数を占めていたと聞きます。
髙橋社長
当時は諏訪式繰糸機で工場を始めました。製糸工場としては遅いスタートだったようです。戦後は「出し釜」と言って自宅にある諏訪式繰糸機で糸取りをしてもらい、生糸を回収する方法で再開しました。その後、諏訪式繰糸機の工場を整備し本格的に生産を再開しました。宮坂製糸所の変遷については、会長の宮坂照彦が書いた※「時代おくれの製糸工場のはなし」という原稿があります。
― それから90年以上経って、現在、日本に製糸工場は※7軒しか残っていません。昭和34年には全国で※1,871軒あったそうなので、よくぞ続けてこられたと思うのですが、髙橋さんは奥様の栄子さんが2代目社長(現会長:宮坂照彦さん)の娘さんで、会社を継ぐために岡谷に戻られたんですね。
髙橋社長
製糸に関する知識が全くなかったので、継ぐために何が出来るか、まず1から知識を身につけることから始めました。
― それまで高橋さんの人生の中でシルクや製糸と関わりはありましたか?
髙橋社長
いいえ、まったくありませんでしたね。
それまでは造園設計事務所で造園の設計コンサルタントなどをやっていました。主には自然環境調査を行い、その調査を踏まえて、緑地の保全計画や公園作りに関わっていました。自然相手の仕事です。ただ、考え方や仕事の進め方などは役に立つこともありました。
38歳の時に岡谷に来て、それから18年経ちました。
― それまで奥様のご実家があるという事で岡谷に来たことはあったとは思いますが、
今まで全く縁が無かった製糸の仕事をすることをどう感じていましたか?
髙橋社長
跡取りがいなければお義父さん(現会長)の代で終わってしまう、それはもったいないとは感じていました。実は仕事の内容はよくわかっていなかったんですが、伝統的な手法でやっていることは聞いていましたし、実際に工場見学もしました。たまたまNHKの取材が入っている時もあって、注目されている工場だなと思っていました。
難しいかもしれないけど、誰も何もしないで後で後悔するよりは、まずは10年やってみて何か結果を出せたらなと。業界全体が尻すぼみの中でしたが、その時はそう思っていました。
― 最初は繭から糸を取るところから仕事を覚えたんですか?
髙橋社長
やりましたよ。恵まれていたのは、元気なベテランの方たちが働いていて、色々教えてくれたことかな。当時働いていた人たちは平均年齢75歳を超えていましたが、まだまだ皆さん元気で仕事にやりがいを持って働いていましたね。私は全くの素人でしたが、色々と丁寧に教えていただきました。
― 先人の方の想いをきちんと聞いてくださる髙橋社長の人柄を皆さん見てくれたのかもしれませんね。
髙橋社長
良い人に恵まれました。タイミングも良かったところもあります。私が来たときは諏訪式繰糸機と上州式繰糸機の2種類の繰糸機が稼働していました。どちらも手作業で糸を取る機械です。元々は生産性の高い日産HR型自動繰糸機も動かしていましたが、自動繰糸の生糸は価格的に中国糸にかなわないことから生産する機会もかなり減少していました。昔ながらの手作業で糸を取る諏訪式や上州式を使っていたから、逆に面白いと感じました。その技術を大切にしていけば続けられる可能性はあるかなと思いました。
それから10年経った頃に、岡谷蚕糸博物館の建設に伴う工場移設の話が出てきたんです。
その頃、一般社団法人大日本蚕糸会の助成を受けて諏訪式と上州式の操糸機を全てリニューアルし、また、自動繰糸機も小ロットタイプを再整備しました。機械類の設計と整備は※有限会社ハラダの原田尹文会長と※新増澤工業株式会社の星野伸男社長にお願いし、いつでも運び出せるような設計にしたことが正解でした。
岡谷蚕糸博物館に工場新設、世界に類を見ない場所として新スタート
― 公共の博物館に民間の製糸工場を併設するアイデアは本当に面白いと思います。世界でも例がないのではないでしょうか。
髙橋社長
閉所となった農業生物資源研究所の施設を残し、博物館として再利用する案は、シルク文化協会が中心になり、行政へ働きかけていました。その構想づくりにも一員として関わりましたが、幸い前職のコンサルタントの経験を活かすことが出来ました。
立ち上げる時はなかなか不安なところもありました。
シルク文化協会の中にも心配する声はありましたね。そもそも製糸業自体が成り立たないところがある中で場所を移して本当に大丈夫なのか?とご心配の声も多く頂きました。
でも最後はやるってことに決まったんですよね。
私一人の成果では無くて、色々な方の協力があってこそできた事ですね。
― 実際に糸を取っている従業員さんたちはどうだったんですか?
作業をしているところをお客様に見られるわけですよね。
髙橋社長
すごく抵抗があったと思います。
でも、説得した訳ではないけれど、やってくれましたね。
残念だったのは、10年前には70歳だった従業員も80歳になっていて、そうなると退職される方も出てきました。もしかしたら、もともと退職を考えられていて、工場の移転がきっかけで辞められた方もいたのかもしれないと思いました。
でも従業員が働く環境としては抜群に良くなりました。
移転前の工場を見学したことがある方は、昔の方が風情があったという方もいますけど、
移って正解だったと思います。
― 製糸工場が日本で7件しかない中、糸取りの技術を見られる環境がある事はとても貴重なことだと思います。
平成26年(2014年)8月1日、迎えたリニューアルオープンの日はいかがでしたか?
髙橋社長
正直、戸惑いました。3日間無料開放だったこともありますが、本当にたくさんの人が来てくれてびっくりしました。その後もツアーの人たちがたくさん来てくれました。
大人気のシルクソープ誕生!そして、宮坂オリジナルの生糸の開発
― 宮坂製糸所には工場併設のファクトリーショップがありますよね。その看板商品がミヤサカシルクトリートメントソープ。実演販売の効果もあってお土産品として大人気ですよね。
髙橋社長
私がやりたかったことの一つなんですが、糸以外でシルクを売りたいと考えていたんです。
色々と調べて、宮坂製糸所の糸を使ってシルクソープを作ってくださる株式会社絹工房(群馬県富岡市)と出会いました。シルクの石鹸作ってくれるところは他にもありましたが、絹工房さんはこちらの糸をしっかり使ってくれるという信頼がありました。
絹工房さんから工場内にシルク専門店を作ったらどうかとアイデアを頂き、開館の直前に石鹸の実演場所とショップを整備しました。おかげで石鹸がよく売れるようになりました。
― オンラインショップも運営していますし、色々な事業を展開されていますね。
実際のところ、生糸はどのような方が買われるんですか?
髙橋社長
大半は和装関係です。でも今はコロナウイルスの影響もあって、和装関係の業界全体が厳しいですね。
― その中で、銀河シルクとかトルネードシルクとか新しい糸を開発されていますね。特徴のある糸を開発して和装関係以外でも使えるようにとの思いからですか?
髙橋社長
そうですね。あまり力を加えないで糸を取れれば一番自然な糸が取れるのではないかという研究結果が出ていた中で、お義父さん(現会長)が中心になって、繭から糸を取り出すときに張力をほとんどかけないで取りだせないかと試行錯誤していました。
トルネードシルクの試作の時は、色々なところで糸取りをして面白かったですね。上州式繰糸機だと玉糸を使って節のある糸を作るわけですが、玉糸を使わずに味のある糸を作りたい。そこで、2層式洗濯機に繭を入れてぐるぐる回しながら糸を取ったり、小型の下着洗濯機でもやったし、横河川の小さな滝の所に繭を入れて糸を取ってみたりもしました。
だから開発の経緯はとても面白かったですね。
あと、モールス符号を生糸の節に変えて、言葉を入れた生糸をつくるなど、面白い取り組みでした。
― 銀河シルクはファブリックパネルとして新たな製品にもなっていますね。
髙橋社長
そんな中で課題も見えてきています。銀河シルクもトルネードシルクもやっぱり織りにくいんですよ。目指しているのは誰でも同じように織れる糸なんです。まだまだ改良途中ですが、何よりも安定して生産できる糸であることが一番大事だと思っています。もちろん私一人では何もできないので、お義父さんは糸の太さを揃えたり、栄子さんは糸取りをやったり
家族でできることを頑張っています。
日本の絹の価値を正しく理解してもらうことの大切さ
― 岡谷で養蚕が復活して岡谷産の繭が取れるようになったことについてどう思いますか?
髙橋社長
もちろんいい事ではありますが課題もありますよね。現在の蚕糸業は産業として維持するには大変厳しい状況となっています。補助金に頼らざるをえない所もあります。養蚕農家という視点だけで成り立たせるのは難しいので新たな事業形態、ビジネスモデルも必要なのかと思います。
― そんな中、『やなのうなぎ観光荘』の宮澤健さんはサナギの価値が上がっていけば、養蚕の価値も上がっていくという考えで「シルクうなぎ」を開発されましたね。
髙橋社長
面白い視点ですよね。宮澤さんが相談に来た時にお伝えしたのは、製糸工場からするとサナギを取り出すのも相当な仕事だということ。それを理解してもらって、食用のサナギの値段が決まり、商売として成り立つ。それでサナギの価値が高まれば、まだ難しいかもしれないけど将来的に繭の値段に上乗せできるようになればいいですよね。
― そういう需要がもっと高まるにはどうしたら良いと思いますか?
髙橋社長
国の文化事業関連のイベントでは必ず日本の絹が使われるようにするとか。まあ実際には使われているとは思うんですが、日本の絹の価値を正しく理解して、それに見合った価格にしてもらうことも大事ですよね。
糸作りはオーダーメイド、糸や繭をもっとうまく使えるように業界の橋渡しを担う
髙橋社長
絹製品は工程が多いんです。製糸、撚糸、精練、染織。その全工程を繭代を下げないで維持するということはとても大変なんです。でも業者さんたちの中にも何とかやっていこうとして頑張っている人たちもいる。でもどこも大変なのは後継者の問題です。養蚕農家さんだけでなく、製糸工場も撚糸屋さんもみんな同じ問題を抱えています。
― その中で宮坂製糸所さんに期待される役割とは何でしょう?
髙橋社長
やめようって考えている人もいるけど、若い従業員さんがいるところもあります。
やっぱりそういう所とつながることかな。
そういう人たちとどういうことができるか、話し合っていくしかない。
― ただ糸を売るというより業界を底上げするということですか?
髙橋社長
底上げするほどの基盤が無いので、今ある糸や繭をもっとうまく使えるようにしていくという事ですね。製糸工場で繭から引いた生糸はそのままでは織ったり製品を作ったりできません。生糸を精練、撚糸する工程が必要だと知らない人もいます。
うちは製品を作ろうとしている方がどういう糸を必要としているかを聞いて、その内容を撚糸屋さんと相談して調整しているんです。
― 糸作りは、オーダーメイドに近いですね。そうなると、髙橋さんのようなつなげる役割は重要ですね。
髙橋社長
製品に合わせるためにどう糸を取るか。その後、撚糸屋さんと調整をして、希望にあった糸に仕上げてあげる方が使いやすいですよね。製糸工場も糸を作っているだけじゃね…。
― 全盛の頃には製糸会社は生糸を作って輸出することがメインだったと思いますが、今は個別にお客様に対応してきめ細やかな仕事をされているんですね。
髙橋社長
そうですね。簡単なことではないですが、今は綿とか他の繊維もそうだと思います。
宮坂製糸所の糸が岡谷シルクの特徴として生かされるような糸作り
― これからどういう風に岡谷シルクブランドと一緒に成長していくか未来の構想をお聞かせください。
髙橋社長
先程もお話ししたように、実際には糸作りの工程のすべてを岡谷だけではできないんです。
岡谷シルクで製品を作ろうとしているお客様の糸作りが上手くできるように、糸の調整役として岡谷以外の人とつながって行ければと思っています。
そして、第一に宮坂製糸所の糸が岡谷シルクの特徴として生かされるような糸作りが成り立っていないといけない。
― 宮坂製糸所の糸作りが岡谷シルクの品質保証にもなっていくんですね。
2022年から岡谷シルクブランド協議会による岡谷シルクブランド認証制度が始まりました。第1弾として市内12事業者の製品31件が認証されましたね。この制度について期待されることはありますか?
髙橋社長
今まで使っていなかった人たちに宮坂製糸所の糸を使ってもらえる機会が増えることを期待しています。
認証はシルク製品だけではなく4類型に分かれているので、企業、作家、アーティストなど幅広い層から新しい糸の使い方を提案してもらえたら面白いなと思います。
また、今まであった商品であっても岡谷シルクブランドマークで付加価値が上がるのではと考えています。
実は今までもお客様から岡谷の糸の特徴や品質が分かるものが欲しいと言われていたんです。今回の審査で、宮坂製糸所の生糸もブランド認証されたので使っていただくお客様にも喜んでもらえます。
それから、糸の需要が増えることで、養蚕農家さんの後継者が増えるといいなと思います。
インタビュアー
佐々木千玲/第1期岡谷市地域おこし協力隊
※「時代おくれの製糸工場のはなし-宮坂製糸所-」宮坂照彦著
岡谷蚕糸博物館紀要,9:23-28 (2004)
https://silkfact.jp/goods/publication/
※「蚕糸業をめぐる事情」農林水産省(令和4年7月)